わたしのヒストリー
人生はたった一度と言われますが、その人の歩んだ人生は唯一のもの。その貴重な体験を「私のヒストリー」(ライフヒストリー)と題してご紹介します。
デイサービス利用者 稲福秀子(84歳)東村宮城在住
昭和八年に本部町で生まれましたが、小学校一年~四年まで南大東にいました。七名きょうだいです。私は二番目です。女では一番上です。
昭和十八年頃疎開で九州大分に行きました。三家族がお寺にお世話になりました。あちらで学校も通いました。冬は雪が降って、沖縄と比べると寒くてつらかったです。
空襲にも遇わず無事、終戦で本部に戻ってきました。本部では畑や財産も少なかったので、父親は木を伐採しカズラを植えていました。
「ここでは生活できないよ。」とお父さんに言って、那覇で親戚がネクタイ屋をやっており家も探してくれているというので父親に話すと「あと二~三ヶ月したら(那覇に)行くよ。」と言ってなかなか行きませんでした。
私は家の手伝いで学校にも行けません。同級生が家に来て両親に「秀子を学校に行かせてやって下さい。」と泣いてお願いしましたが、母親は「学校に行かせたら生活ができない。」と言って、聞いてくれませんでした。
毎朝三時に起きて豆腐を作ります。私が豆を挽くと母親がしぼります。
冬は水が冷たく、手が切れて痛くて泣きたかったです。シンメーナービイ(大鍋)に二鍋を作ると近所の方が買いに来ていました。
苦労をした甲斐あって弟たちは成功しました。「姉さんの、あの犠牲があったから成功できたんだよ。」と言われます。あの苦労を本当は思い出したくないです。学校に行きたかったと今でも強く思います。
十年ほど前、お世話になった大分のお寺に弟たちと訪ねました。南大東にも行ってみたいです。