わたしのヒストリー 吉濱愛子さん九十歳(喜如嘉)
人生はたった一度と言われますが、その人の歩んだ人生は唯一のもの。その貴重な体験を「私のヒストリー」(ライフヒストリー)と題してご紹介します。
「あいちゃんマチヤー」(雑貨店)の想い出
子どもたちがまだ小さいころ八班(喜如嘉)の入り口の停留所のそばでマチヤー(雑貨店)をしていました。一人でやっていたので小さい店でしたが何でも売りました。店は看板もなかったがオバーたちが「アイちゃんマチヤー」と呼んでくれていました。とにかく忙しく寝た覚えがないくらいでした。
そうめんや缶詰などの食品が主でした。野菜を持ってきてほかの食べ物と交換していく人もいました。豆腐はバール(班)のかたが作っては仕入れていました。その日のうちに売り切れるぐらいしか仕入れませんでした。お菓子は蓋付きのビンに入れていましたが私が眼を話した離したすきに子供たちがそのまま持って行ってしまいました。「浜の木の下に置いて食べている」と他の子どもたちが私におしえるので浜に行ってみてたら、いっぺんには食べないで何度もまわってきて食べているようでした。「あんなことしないでね。自分が困るんだよ」と言って聞かせました。これは私が悪い。子供に悪い癖つけて盗ます私が悪いと思いました。この子供たちは大きくなっても私に悪いと思ったのか隠れて私にみられまいとしていました。
冷蔵庫もない時代だったのでバケツに氷を入れてコーラなんか飲み物を売っていました。年寄りは頭が痛い、子供に熱が出たと言っては氷を分けてくれと人が来ていました。あらかじめ氷は多めに買って分けてあげていました。薬は免許が必要でとりました。酒は量り売りでした。マーサー酒(二番取り)を買う人が多かった。マーサー酒は安いし飲みやすいからよく売れました。昆布やソーメンは斤(きん)作り(づくり)といって計り売りしました。名護に行くときに仕入れもしたが卸屋の前で買った品物を持って行かれたこともありました。
早く売るために他の売店より少し安い値段にしていました。延買する人もいました。そんな時は自分で帳面に書かせていました。みんな金がない時代でした。オバーたちが店番してくれることもありました。店の前にみんな座ってユンタクしながら店番してくれ、ありがたかったです。
バスの煙と砂埃がひどく、道路ができて道より低くなったので浸水して店はやめました。「店はやめるな」とオバーたちが引っ越した家まで来ていました。姑が絣の仕事をしていてユンタクすると数の間違いするから来るな!と言って帰していました。
皆が座ってユンタクするのが楽しい明るい店でした